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Reginella Campagnola~村の娘~

手作り生パスタ教室「Il Sole」の主催者が日々の生活をお伝えします。



イタリア料理を知る その7 :: 2022/07/23(Sat)

 イタリアに着いて初めての土曜日は、皆と一緒にルッカの街に出かけ、ローマ時代の面影を残すアンフィテアトロ広場に面する「リストランテ・カヌレイヤ」に行って夕食を取った。小さな町のリストランテというものはいいものだ。夕暮れ時にそこだけぽっと明かりがついている。ドアを開けると、ナイフとフォークが微かにたてる音、楽しそうなおしゃべりや笑い声。シェフのパオロは、かつて東京のサバティーニ・ディ・フィレンツェでシェフを務めた人で、奥様は日本人。お二人で料理のことを丁寧に説明してくれた。私が食べたのは鳩のラビオリとミラノ風のカツレツ。皆がそれぞれに興味のある料理を頼み味わった。日曜日はルームメイトのエリちゃんとてくてく歩いてスーパーに買い物に行ったり、一緒にご飯を作ったり、翌日の料理講習のレシピを辞書を引き引き読んだりして過ごしたが、部屋の中は相変わらず寒く、暖房をつけても一向に暖まらない部屋で凍えた。

 明けて月曜日はジャンルーカの授業。メニューはアジアゴチーズとキノコの取り合わせ、グリルしたアーティチョークのマリネ、野菜のファルチアとクレープ、ミラノ風リゾット、仔牛肉のオッソブーコ、そしてトルタ・デッラ・ノンナ。
 ジャンルーカのタルトは絶品だ。「タルトの材料はまとめるだけでこねてはいけないよ。」と言いながら、台の上に粉を広げると千切ったバターや玉子、それにオレンジの皮をたっぷりと削って手早く混ぜ、全体をまとめたら大きな手でほんの数回押して綺麗な生地にしてしまう。いわゆるパスタフローラだ。「トルタ・デッラ・ノンナ」つまり「おばあさんのタルト」は、この生地をのばしてタルト型に敷きこんだら一度空焼きし、カスタードクリームを入れて同じ生地で蓋をする。上にたっぷりの松の実を振ってオーブンでこんがりと焼く家庭的なドルチェだ。たった二つの構成要素、パスタフローラとカスタードの出来が全て。シンプルなものほど材料が重要でかつ難しい料理であることの典型だ。粉はパスタやピッツァを作るファリーナ00より一段粗い0粉を使う。さらさらとしたこの粉を使うとタルト生地がさっくりと焼けるが、それでもこねすぎれば不要なグルテンが出来上がって焼き上がりが固くなるし、どこまでこねるかの微妙な見極めは本人の経験としか言いようがないのだと思う。要するに手わざである。生地を押していてああここだなと思ったところというよりも、それさえ考えなくても自然に手がとまるのだろう。ジャンルーカはおそらく10代のころからやっているはずだ。
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 中に入れるカスタードクリームを作る。鍋に牛乳を入れてレモンの皮を少し入れる。レモンの皮を入れて沸かすと牛乳にレモンの香りが付いて、他の材料と合わせてじっくりじっくり木のヘラでかき混ぜながら火を通すと、爽やかな香りのカスタードクリームが出来上がる。パスタフローラにはオレンジの皮を入れ込み、カスタードクリームにはレモンの皮でお香りをつける。初日のドルチェもそうだったが、ジャンルーカは柑橘類の香りをドルチェに付けるのが本当に上手い。
 飾り気もなにもないドルチェだが、さっくりした生地がほろっと崩れたところに柔らかいカスタードクリームが乗っかった姿はいかにも美味しそうだ。口に運ぶと柑橘類の香りをふっと鼻に抜けるし、噛むと松の実の香ばしさが広がる。全く言う事の無いドルチェだ。宝石のような華やかなドルチェが必要な場もあるだろうが、家族や本当に親しい人達と食事をするなら、だれもが美味しいと思うこんな優しいドルチェで食事を締めくくりたいと思う。お婆ちゃんのタルトという名前の所以。祖母の膝の暖かさを思い出してしまうそんなドルチェ。いつか私も作れるようになるのだろうか、長い長い年月をかけて。
(2010.3.8)


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イタリア料理を知る その6 :: 2022/05/23(Mon)

学校が始まって一週間。一番年若の翼が言い出して金曜日の夜に「フェスタ」をすることになった。「フェスタ」って何!要は何か持ち寄ってお疲れ様会をしようというわけだ。3ユーロずつ出し合って、山を下りたところの小さなスーパーでワインとビールを買い、どこで調達したのかチーズやサラミなどを持ち寄って男子の寮の一屋部に集まった。私が最年長の40代、20代から30代までまんべんなく揃っていて、後は10代の翼。ローマで乗り換える時に、首にかけた貴重品を入れた袋をお腹のところでしっかり押さえながら、「ここでパスポート必要ですかね・・・」と話しかけてきた彼は、いがくり頭に華奢な体つき、十五六歳にしか見えなかった。こんな幼い少年が一人でイタリアに来てしまって一体どうしたことかと思ったが、人を年齢や外見で判断してはいけない。高校卒業後にホテルの厨房で働いていた彼は、初日の実習で小さなオレンジを大きな包丁を使ってやりにくそうに剥いていた私に、「これでやると楽ですよ。」とそっと果物ナイフを渡してくれるできる青年だった。明るく人懐っこい彼が断トツに若かったので、皆でからかったり、いや可愛がることで私達はなんとなくいつも和やかに過ごすことができたと思う。

女性は私を含めて4人。私以外は20代の後半だった。将来はカフェをやりたいと話していた彩子ちゃんは、以前にもイタリアの他の地域に住んでいたことがあって、イタリア語も皆よりは随分できた。初めて4人でローカル電車に乗ってフィレンツェに行った時、チケット売り場で「Un biglietto per Firenze.,per favore.」というのだと教えてもらい、一人ずつ窓口でその通りに言って切符を買ったりした。彼女たちからしてみれば大分年上の私を、どこに行くのでも誘ってくれて嬉しかったし有難かった。

男子の面々は、年齢も出身地も経歴もさまざまだった。料理関係の仕事をしていた人がほとんどだったが、皆仕事を辞めてきているし、結婚している人、幼い子供もいる人もいた。先のことを考えれば不安だらけだったと思うが、とにかくイタリアに着いて学校が始まり一週間が終わったという安堵感にこの時は浸っていたと思う。また、この学校はもともと日本におけるイタリア料理人を養成することを目的として設立された為、この当時、生徒のほとんどは日本人だったが、今回のメンバーの中にはアメリカ人のアランとイタリア人のマルコがいた。アランは寮生活だったということもあって私達といつも一緒にいた。しばらくすると彼に日本語で話しかけてしまうほど親しくなった。夜が更けるまで小さなグループがいくつもできてはまた別のグループを作り、いろいろな事をこの時に話したと思う。(2010.3.5)

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イタリア料理を知る その5 :: 2022/05/15(Sun)

我らがマリエッラ!学校に到着したその日の自己紹介で「マンマと呼ばないでよ。」と言った彼女は校長の助手である以上に、私達生徒にはなくてはならない存在だった。実習の時に何か困ったことがあれば「マリエッラ!マリエッラ!」と皆が彼女の名前を呼んだ。どこに居ても「Dimmi 」と答える彼女の大きな声は、抜群の信頼感があった。毎朝、学校から少し離れたところに住む泰子ちゃんと彩子ちゃんを車に乗せて学校に到着する時からすでに厳しい表情で、授業の時も、試食の時さえもその表情を崩すことはほとんどなかった。

この日はマリエッラの初めての授業。メニューはズッキーニやパプリカの肉詰め、栗の粉入りパッパルデッレとお肉のラグー、パスタ入りのうずら豆のスープ、牛肉のブラザート、カルドンのグラタン、ミモザのケーキ。どれも家庭的な料理だ。特にパスタ入りのうずら豆のスープは、茶色くてどろどろしていて、素朴すぎる見た目からその美味しさを感じることは難しい。ただ、実習に入る前のマリエッラの説明は熱がこもったものだった。このようなシンプルな料理は、だれが作っても同じだと思うかもしれないが、決してそうではない。シンプルなだけに、材料にとことんこだわること。材料を吟味して良いものだけを使う事がとても大切と教えてくれた。玉ねぎ、セロリ、にんじんとイタリアンパセリのみじん切りをオリーブオイルで煮るようにじっくり炒めてソフリットを作り、あらかじめ柔らかく茹でておいたうずら豆を汁ごと合わせる。ムーランで濾してから、ひし形に切って茹でたパスタを入れて馴染ませる。この地味な見た目の料理が美味しくて驚いた。ソフリットをじっくり作ることによる野菜の旨味と、豆のほんのりとした甘みがデリケートに混ざり合っている。この料理に出会っていなければ、トスカーナの料理に対する考え方が違っていたとも思う。

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学校に慣れたころ、マリエッラに厳しくしかられたことがあった。料理で使ったバターの残り、ほんの少しの量、親指の爪ほどもない量だったが、それを私がゴミ箱に捨てた。こんな少しのバターなどもう使いようがないと思ったのだ。それぞれが黙々と実習をしていて、調理道具が立てるいつもの音がするだけの空間に「このバターを捨てたのは誰!」とマリエッラの声が響いた。すぐにこれはまずいことをしたのだなと悟った。「何にでも使えるものを捨ててはいけない。こんなことをしていては、レストランは成り立たない。」ときっちりと言われた。私だけではなく、その場にいた誰もがその言葉をしっかりと聞いたのだと思う。それからは、それぞれがどんな野菜の切れ端もちゃっちゃっとラップに包んでは捨てずに冷蔵庫にしまった。ところが、明日は公的機関の衛生に関する検査が入るという日、ラップに包まれた大量のなぞの物を冷蔵庫で発見したマリエッラが「どうしてこんなゴミにしかならないものをいつまでも取っておくの!全く!不衛生でしょう!」とまた叱られた。確かに彼女は何にでも使えるもは、捨ててはいけないと言ったのだ。正に調理場の番人のように、目配りし気配りをしていたと思う。生徒達に対する態度もマンマなどと呼ぶような感じではない。ゴミを捨てる当番の人間がそれを忘れてしまった翌日の朝、「あぁ!マリエッラに叱られる・・・」とうなだれているのを皆で囲んで「あ~あ」などと言っていると、丘の向こうから彼女の車が近づいてくるのが見えた。大変だ、どうしようどうしようと皆でゴミの置き場を探して右往左往していると、すでに彼女が仁王立ちになっていて、全員で悲鳴を上げそうになったこともある。人を叱るのは大変なことだ。情熱と責任感、なによりも思いやりが無ければできない。ほうっておけるのだ。日本から来た見ず知らずの人間のことなど。私が彼女の笑顔を確実に見たといえるのは、卒業間際に学校の庭に咲いた椿の話をした時だけだ。

私達が卒業した数年後にマリエッラも学校を去り、その直後に娘さんと来日して、東京ではたくさんの卒業生達が彼女を囲んだ。笑い声が響く楽しい夜だった。それからまた数年後に私がルッカを訪ねた時、彼女の家に行って料理を教わった。学校を離れれば、親しみやすい優しい人だが、料理中にふと厳しい表情を見せることがあって懐かしかった。いつでも真剣なのだ、彼女は。
(2010.3.5)


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イタリア料理を知る その4 :: 2022/04/29(Fri)

 この後何度も学校のメニューに登場することになる「ズッパ・ディ・ペッシェ」の一回目。トスカーナの沿岸部の町から来た女性のシェフ、エンリカがこの日の講師。「ズッパ・ディ・ペッシェ」を、お魚のスープと訳すのはやはり無理がある。今日のリストランテでは、高級化された美しい皿が供されるが、元は漁師が売り残った魚を使って作ったものだと教わった。つまり売ることもできない小魚のごった煮が原型だ。

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 イタリアは、ヨーロッパの他の国々と接する北部を除いては、ぐるりと海に囲まれている国だ。トスカーナ州も西部はティレニア海に面していて、この日の講師エンリカもそうだが、海に近い町から来たシェフ達の料理は魚介を使ったものがほとんどだ。この朝、厨房に運ばれたのはスミイカ1.5キロ、ツノザメ2キロ、ホウボウ1キロ、カサゴ1キロそれに300gのシャコ。にんにくとイタリアンパセリで香りを付けたオリーブオイルでスミイカを炒め、大量のトマトを入れたら、小さく切った魚を次々と鍋にほうりこんで煮込む。ただこれだけのシンプルな料理。墨袋が破れて真っ黒、ぬるぬるとしたスミイカのワタを引き抜き短冊に切ったり、シャコの脇の固いところを切り落としたり、そのままでは食べられないものを食べられるものにしていく。ホウボウのどこか愛嬌のある頭がそのままどんと皿に乗って出てきたのには驚いたが、ものすごく美味しいとは思わなかった。

 私が「ものすごく美味しい」と思ったズッパ・ディ・ペッシャを食べたのは、ナポリの町の喧騒が聞こえてくる小さなキッチンだ。毎朝、心優しいマリーサと手をつないで(本当に)、ナポリの下町の魚屋まで行き、その日上がった生きのいい魚を買った。家に帰るとすぐにエプロンを付けたマリーサが、手際よくパンパンと魚を切って、にんにくの香りを付けたトマトソースに入れて煮てくれる。作り方は料理学校と同じだ。骨からほろっとはずれた身を食べるのはもちろんだが、汁をすすったり、小さく切って入れておいたパンが柔らかくなったところを口に運んだり。最後に煮崩れた魚の身とトマトソースが混然一体となってとろっとしたところに、茹でたスパゲッティを和えて食べるのがまた美味しい。お腹がいっぱいだ。学校で習ったリストランテのズッパ・ディ・ペッシェがおすまし顔で食べなければならないとしたら、家庭で作る同じ料理は、もう一心不乱にスープの一滴がなくなるまで味わい尽くすもの。この家庭料理のズッパ・ディ・ペッシェを原点としなければ、何をめざしたらよいか分からず、綺麗に作ることばかりに気を使ってことを見誤る。

 それにしても毎日足を運んだナポリの魚屋の若い衆達の姿は忘れられない。「見て!新鮮だよ!こんなに新鮮だよ!」と小さな鰯をほいっと口に放り込んで、にこっと笑ったあの顔。店の奥ではシャツの上からも筋肉の盛り上がりが分るような青年が、生きたタコの頭を金槌でバンと叩いて絞めている。よく見れば顔はまだ幼い。二の腕にはナイフでえぐられたような傷。
 この店の大きなたらいの中には烏賊やタコがゆらゆらと泳いでいて、立ち止まってじっと見入ってしまう。鱗を輝かせた魚も無造作に積み重ねられているだけだ。そんな店を見まわしていると、なぜだろう子供の頃に母に連れられて行ったあの店の前に立っているような気持ちになる。昭和40年代の東京は代々木。その千代通りという商店街には黒いゴムの前掛けをかけて、深い長靴をはいた男達が何人も立ち働く店があった。分厚い木のまな板の上に勢いよく魚を置くと、出刃包丁で頭をざっくと落とし、引き出した内臓を無造作にポリバケツの中に捨てる。すぐにホースから勢いよく出る水でまな板の血を洗い流す。その光景は子供にとっては少し怖いものであったが、目をそらせない力強さがあった。

 そんな海と家庭の台所の中継地点のような店は、私が今住む町にはない。家から数分のところに時代から取り残されたようにあったその店は、客と話しながら見事な包丁さばきで魚をおろしてくれた店主が亡くなってからは、後を継ぐ人がおらず閉じてしまった。それからは、もっぱらスーパーでパック入りの大人しい魚を買っているが、あのナポリのズッパ・ディ・ペッシェを作るのには全くもってそぐわないと心の中でため息をついてしまう。素材に向かう意気込みのようなものが違ってくると思う。時代の流れである。
(2010.3.4)



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イタリア料理を知る その3 :: 2022/02/25(Fri)

小さい頃コックさんと言われたらこういう姿を想像するに違いない。マリオ・ネッリは御年79歳。トスカーナの古都シエナの出身。優しい眼差しで素材を見、私達を見た。

ほとんど黒に近い、深い緑色のごわごわとしたカーボロネッロという野菜。そのまま訳すと黒キャベツだが、キャベツと言っても私達が日本で食べている千切りにすればふわふわと、ソースをかければそのままで十分美味しいというものではなく、細長いケールと言った方が正しい。このカーボロネッロを一度柔らかく茹でてからにんにくのみじん切りと一緒に炒め、薄切りのパンの上に乗せて食べるブルスケッタがこの日のアンティパスト。
何年か前にこのカーボロネッロを畑で育ててみたが、真冬の寒さの中でも何ともないよという風にのびのびというか、ぼさぼさと生えてきて取っても取ってもまたしばらくすると脇から葉が出てくる。葉物野菜が少なくなる真冬にあってもビタミンを補給できる貴重な野菜なのだろう。
アンティパストのもう一品は鶏の脾臓とレバーのクロスティーニ。脾臓も入れるのかと思っていたら、他のシェフのレバーのペーストの時には鶏のとさかも入っていた。レバーと一緒に炒めてペースト状にし、同じくパンに乗せて食べる。
パスタはピーチというスパゲッティのご先祖様のようなイタリアでも一番古い型の麺だ。マリオ・ネッリが柔らかい生地をくるくるひゅっと手品のように伸ばした。日本のうどんのような太さだ。これはアリオーネというにんにくがたっぷり入ったトマトソースで食べた。美味しい。
プリモピアットをもう一品。アクアコッタというズッパ。ズッパをなんと訳せばよいのだろう。よくスープと言われることがあるが、さらさらと汁気が多いものではなく、もっと具が沢山入っていてどろどろと濃厚なもの。あえて訳すならごった煮という方が近いと思う。たいていは固くなったパンを仕込んである。アクアコッタは、ズッパの中でも古いもので、外で仕事をする人達が焚火にかける飯盒のようなものを持って行き煮炊きしたものが原型だそうだ。アクアは水でコッタは煮るという意味なので、水で煮たという素朴極まりないものだったのだろう。現在のアクアコッタは、やはり固くなったパンを皿の底に敷き、野菜のスープを注いだらパルミジャーノチーズをたっぷり振って玉子を落とす。これをオーブンで焼きグラタン状になったところを食べる。この料理を2022年2月現在の私の教室のメニューにあげた。いかにも田舎っぽい、飾り気の無い、レストランでは決して出てこない料理だが、ただただ暖かさが体に染みる。

セコンドピアットのキャンティ風鶏の煮込みとドルチェのおばあさんのピノラータ。この日の料理はどれも親しみやすく、お代わりしたくなる。全部好きだと思った。マリオ・ネッリの綺麗な白髪、笑顔で作られた顔の皺。よく働いた大きな分厚い手。素朴な料理には年季がいる。
(2010.3.3)
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