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Reginella Campagnola~村の娘~

手作り生パスタ教室「Il Sole」の主催者が日々の生活をお伝えします。



イタリア料理を知る その4 :: 2022/04/29(Fri)

 この後何度も学校のメニューに登場することになる「ズッパ・ディ・ペッシェ」の一回目。トスカーナの沿岸部の町から来た女性のシェフ、エンリカがこの日の講師。「ズッパ・ディ・ペッシェ」を、お魚のスープと訳すのはやはり無理がある。今日のリストランテでは、高級化された美しい皿が供されるが、元は漁師が売り残った魚を使って作ったものだと教わった。つまり売ることもできない小魚のごった煮が原型だ。

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 イタリアは、ヨーロッパの他の国々と接する北部を除いては、ぐるりと海に囲まれている国だ。トスカーナ州も西部はティレニア海に面していて、この日の講師エンリカもそうだが、海に近い町から来たシェフ達の料理は魚介を使ったものがほとんどだ。この朝、厨房に運ばれたのはスミイカ1.5キロ、ツノザメ2キロ、ホウボウ1キロ、カサゴ1キロそれに300gのシャコ。にんにくとイタリアンパセリで香りを付けたオリーブオイルでスミイカを炒め、大量のトマトを入れたら、小さく切った魚を次々と鍋にほうりこんで煮込む。ただこれだけのシンプルな料理。墨袋が破れて真っ黒、ぬるぬるとしたスミイカのワタを引き抜き短冊に切ったり、シャコの脇の固いところを切り落としたり、そのままでは食べられないものを食べられるものにしていく。ホウボウのどこか愛嬌のある頭がそのままどんと皿に乗って出てきたのには驚いたが、ものすごく美味しいとは思わなかった。

 私が「ものすごく美味しい」と思ったズッパ・ディ・ペッシャを食べたのは、ナポリの町の喧騒が聞こえてくる小さなキッチンだ。毎朝、心優しいマリーサと手をつないで(本当に)、ナポリの下町の魚屋まで行き、その日上がった生きのいい魚を買った。家に帰るとすぐにエプロンを付けたマリーサが、手際よくパンパンと魚を切って、にんにくの香りを付けたトマトソースに入れて煮てくれる。作り方は料理学校と同じだ。骨からほろっとはずれた身を食べるのはもちろんだが、汁をすすったり、小さく切って入れておいたパンが柔らかくなったところを口に運んだり。最後に煮崩れた魚の身とトマトソースが混然一体となってとろっとしたところに、茹でたスパゲッティを和えて食べるのがまた美味しい。お腹がいっぱいだ。学校で習ったリストランテのズッパ・ディ・ペッシェがおすまし顔で食べなければならないとしたら、家庭で作る同じ料理は、もう一心不乱にスープの一滴がなくなるまで味わい尽くすもの。この家庭料理のズッパ・ディ・ペッシェを原点としなければ、何をめざしたらよいか分からず、綺麗に作ることばかりに気を使ってことを見誤る。

 それにしても毎日足を運んだナポリの魚屋の若い衆達の姿は忘れられない。「見て!新鮮だよ!こんなに新鮮だよ!」と小さな鰯をほいっと口に放り込んで、にこっと笑ったあの顔。店の奥ではシャツの上からも筋肉の盛り上がりが分るような青年が、生きたタコの頭を金槌でバンと叩いて絞めている。よく見れば顔はまだ幼い。二の腕にはナイフでえぐられたような傷。
 この店の大きなたらいの中には烏賊やタコがゆらゆらと泳いでいて、立ち止まってじっと見入ってしまう。鱗を輝かせた魚も無造作に積み重ねられているだけだ。そんな店を見まわしていると、なぜだろう子供の頃に母に連れられて行ったあの店の前に立っているような気持ちになる。昭和40年代の東京は代々木。その千代通りという商店街には黒いゴムの前掛けをかけて、深い長靴をはいた男達が何人も立ち働く店があった。分厚い木のまな板の上に勢いよく魚を置くと、出刃包丁で頭をざっくと落とし、引き出した内臓を無造作にポリバケツの中に捨てる。すぐにホースから勢いよく出る水でまな板の血を洗い流す。その光景は子供にとっては少し怖いものであったが、目をそらせない力強さがあった。

 そんな海と家庭の台所の中継地点のような店は、私が今住む町にはない。家から数分のところに時代から取り残されたようにあったその店は、客と話しながら見事な包丁さばきで魚をおろしてくれた店主が亡くなってからは、後を継ぐ人がおらず閉じてしまった。それからは、もっぱらスーパーでパック入りの大人しい魚を買っているが、あのナポリのズッパ・ディ・ペッシェを作るのには全くもってそぐわないと心の中でため息をついてしまう。素材に向かう意気込みのようなものが違ってくると思う。時代の流れである。
(2010.3.4)



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